イメージ・トレーニング

土踏まず月間第8日目。

この2年弱、私はずっとイメージを温めてきた。それを今、見える形に創っているところなのだが。これまでほぼ毎日、頭の中でシュミレーションをしない日はなかった。この間、実際に筆を手にすることはなかったとしても、今久しぶりに始めて、ほとんど何の支障もなく、仕事が進められている。
所謂、『構想を温める』とか『構想を練る』という作業のおかげだ。(むろん、鉛筆でのラフは描いたが)

ところが、先日、このことを、笑われることがあった。
その相手も、物を作っている人なのだが、「それなら私だって頭の中でなら、素晴らしい作品が山のようにできあがっている!あなたはおかしい」と、その人は言って、大笑いした。
私の言ったことは、そういった、頭の中であれこれ素敵な作品を思い浮かべるようなことではなかったのだが。
私が、「そういうことではなくて、」と補足の説明をしようとすると、その人は、「またその真面目に言おうとするところが、さらにおかしい」と私を指差して笑うのだった。頭の中でなら、どうとでもいくつでも素晴らしい作品を作れるに決まっているじゃないかと、その人は言うのだ。それを、私がおお真面目に言っているのが、実に笑ってしまうのだと。
私は馬鹿にされたような気がして、内心少なからず腹を立てたわけだが、その人は、同席していたもう一人に同意を求めつつ、いつまでも笑っているので、これ以上説明するのをあきらめ、そのまま黙った。
自然に、話はその二人の間で別の話題に移っていったので、私はそのままその話に耳を傾けるふりをしていた。

私は、つくずく、人が人を理解することは難しいのだと思った。
同じ、物を作るというある意味リンクする部分を持っていると思われる同士でも、理解しあえないのだから。
目に見えない部分で、どういう作業をしているか、説明することの難しさ。私がまた上手く説明できなかったということもあるだろうが。

私は、狭些な自分の経験上だが、実際に筆を執りキャンバスに向かえない時間が長く続いたとしても、その間心で『自分の絵』と繋がっていれば、再び描けるときがきたときに、あまり時間を要さずとも描く体勢が出来上がるものだ。へその緒で絵と繋がっているというか、丹田で繋がっているというか。

村上春樹が、チャンドラーの『ロング・グッドバイ』の訳本の後書きに、チャンドラーの言葉を引用している。
「少なくとも、一日に4時間くらいは、書くか何もしないかのどちらかの時間を設定する。
もし、書く気が起きなかったら、無理に書こうとする必要はない。
窓から外をぼんやり眺めても、逆立ちをしても、床をごろごろのたうちまわってもかまわない。
ただ、何かを読むとか、手紙を書くとか、雑誌を開くとか、いったような意図的なことはしてはならない。
この方法はうまくゆく。
ルールは二つだけ、とても単純だ。
a)無理に書く必要はない。
b)ほかのことはしてはいけない。
あとのことは、勝手になんとでもなってゆく」

これに対して村上春樹は、
「彼のいわんとすることは、僕にもよく理解できる。職業的作家は日々常に書くという行為と正面から向き合っていなくてはならない。たとえ実際には一字も書かなかったとしても、書くという行為にしっかりとみぞおちで結びついている必要があるのだ。
それは、職業人として徳義に深くかかわる問題なのだ。おそらく」
と言っている。

私がそのとき言いたかったことは、こういうことなのだ。
皆さんには、わかっていただけるだろうか。
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by nyoirin | 2009-03-12 17:20 | 日記

2015.4.1.より、身の回りの小確幸(小さいけれど確かな幸せby村上春樹)を見つけてつぶやきます。


by nyoirin