部屋と「それ」

「常に常に、自らの内に『部屋』を持ち、そこで日々、出会い続ける。
そうすればどこへ行くにも、その『部屋』を持ち歩くことができる。
どこにいても、その『部屋』さえあれば、毎日出会うことができる。

火に焼かれることによって、もう元には戻らないように、魂の在り方が根源的に変わる。
その変化することが『合一』することに他ならない。
そこに至り、魂はくるっと宙返りする。
全てが、逆転する。
快・苦の逆転。健康と病の逆転。生・死の逆転…

魂はいつも、内的にも外的にも、常に祝祭日のようにして歩む。そして日々出会い続け、毎日喜びの歌を唱う。『歓喜の歌』を。
しかもそれは、常に新しい歌を、唱うのである。」

高橋たか子 及び  アヴィラの聖テレジア より



毎日新しい喜びの歌を唱う魂とは、まさに彼の言う、朝目覚めたときから、『それ』の中にいるような状態(?)のことを言っているのではないか。
いみじくも、双方とも、それについて『変容』という言葉を使っている。

ただ、今思えば、「その『部屋』を日々持ち歩き、日々出会い続ける」ということが、かく言う「安心を得たい」という欲望の表われに過ぎないのだということがわかる。
しかし、「魂はいつも、内的にも外的にも、常に祝祭日のようにして歩む」という下りは、まさにそのことを言っているのだとしか、思えてならない。
T.たちは、どうしてもそのカテゴリーの中にいるので、そういう名前を付けざるを得ないのだろう。
しかし本来それは、名付けることなどできないこと・ものなのだ。(ことでも、ものでもないのだが、表記上こう書くしかない。)

彼も、アヴィラの聖テレジアや十字架上のヨハネについて尋ねられたとき、「そのカテゴリーの中にいる以上、違う」(あるいは十分でない)と、はっきり言っている。

私は、『それ』を求めている。
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by nyoirin | 2011-02-28 16:42 | 日記

2015.4.1.より、身の回りの小確幸(小さいけれど確かな幸せby村上春樹)を見つけてつぶやきます。


by nyoirin