無所有

韓国の禅僧、法頂師による随筆『無所有』を読んだ。
「許すということは、他人に施す慈悲心というよりは、散り散りに崩れようとする自分自身を、自ら整えて収めていくことではないかと思うのである。」(本文より)
「本来無一物。-中略- そうだ。もともと、何物もないのだ。この世に生まれてくる時、持ってくるものもないし、この世を去る時、持っていくものもない。因縁が在ったものが、因縁が切れると無くなってしまうものだ。いつの日かこの体も捨てていくだろうに…。」(本文より)
こんな言葉の数々に触れ、ふと本から目を上げて、自分の居室を見回せば、なんと恥ずかしい思いにかられることか。「暗黒山」などと、わざわざ命名までして、本やCDを積み上げている私。クローゼットから、はみ出している服。やっぱり不味いより美味しい珈琲を飲みたいと思ってしまう私…。挙げればきりがない。私の欲と業。
そしてまた、無明の谷を彷徨っている私。独り彷徨いながら、「許すということ」「学ぶということ」「愛するということ」をずっと考えるともなしに、考えている。許すとは、他人を許すことによってのみ、救われる自分というものが在る--とは、村上春樹の言葉。
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許し難いものを許すことは、そう容易なことではない。そこを許す……。難しいことだ。

それにしても、私が嬉しかったのは、先に遠藤周作も『深い河』で引用していたと、我が拙ブログの「ヨハネに想う」のところで書いたのと同じ、「マハトマ・ガンジーが言っているように、宗教とは枝がいっぱいに繁った一本の樹と同じだ。枝から見るとその数は多いが、幹から見るとたったの一つだけである。まったく同じヒマラヤなのに東側から見るとこうであり、西側から見ると違って見えることと同じなのである。それゆえ、宗教は一つに至る個別的な道なのである。同じ目的に至る道なら、別々の道を行くとしても少しも悪いことはない。事実、宗教は人間の数ほど多く有り得る。」(本文より)と、法頂師も言い切ってくださっていることである。
私は、信仰とは、個人的なものであると思い、今こうしている。これでいいのだという、裏付け(?)のようなものをいただいた気分でいるのは、私の勝手な思い込みかとは思うが、私には、こうしてやってゆくしかない。
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by nyoirin | 2007-07-17 23:49 | 本・読書

2015.4.1.より、身の回りの小確幸(小さいけれど確かな幸せby村上春樹)を見つけてつぶやきます。


by nyoirin