カテゴリ:本・読書( 32 )

映画「ノルウェイの森」を観てしまってから、今一度原作を読み返したいと思ったのだが、なんと!未だ暗黒山から見つけ出せない!
ええ〜ん(T0T)  この間は、聴きたいCDがすぐ見つかって、とても幸せな気分になれたのに…
思っていたリビングの暗黒山からは、出てこなかったのだ〜。
となると、仕事部屋のほうの山だろうか?
その山の前には、小型のイーゼルが2本立ててあるので、発掘するにはまずそれらをどかさなくてはならない。
そこから出てくれば、どかすかいもあるのだが、出てこなかったら、骨折り損だわ〜。
でも、読みたい気持ちは抑えられないし…
しくしく…
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by nyoirin | 2011-01-18 18:46 | 本・読書
『1Q84 BOOK3』読了。

村上春樹氏に、心から「ありがとう!」と言いたい。
本当にありがとう。

もちろん世の中にはもっともっと辛く厳しい状況にある人がたくさんいるだろう。そんな方々に比べれば、私の今の状況は、まだまだ恵まれているほうだと思う。
でも、へっちゃらな状況だとも言えないと思う。
そんな、状況にあり、かつ自分でも気づかずに、危ないところまで来ていた私を、この本はすんでのところで救ってくれた。
それは、命の恩人にも値する。


それと、もう一つ。
長年村上春樹の小説を読んできて、ずっと疑問に思っていたことがある。
それは、京都の(高名らしいが、それがどこなのか私は知らない)寺の跡取り息子として生まれながら、そして、このような小説をずっと書いてきていながら、なぜ、宗教を信じるに至らないのか?
『ねじまき鳥クロニクル』のための取材でノモンハンを訪れたとき、宿泊したホテルで不思議な体験をしたという。そのことがなんだったのか、河合隼雄に尋ねてもいる。
それは、必ずしも仏教でなくてもいい。お寺に生まれたからこそ、仏教を拒否することだってあることも理解できる。
しかし彼は、ブディストでないからといって、クリスチャンでもない。ほかのどの宗教も信じていない。なにゆえ?と私は思っていた。
あくまでも、「私は」ね。

そのはっきりした答えを、私はこの『1Q84』から知ることができた。
実は、最初から村上春樹は、それを常に物語として書き続けてきたのかもしれない。ただ、私が、それをそこから読むことができなかっただけかもしれない。きっとそうなんだと思う。
その物語の数々を、今思い出してみると、確かに、そこには常に書かれていたような気がする。たぶんこれから、私はその確認をしてゆくだろう。
また、『1Q84』で初めて、私がその答えを見出すことができたのは、私のほうに、ある意味変化あったからかもしれないとも思う。

とにかく、私は、知らないうちに性懲りもなくまた崖っぷちまで来てしまっていて、危ないところをこの物語に救われたのだ。

感謝の気持ちを表す言葉が、私には見つけられない。


拝啓 村上春樹さま

このたびは、本当にありがとうございました。
心から、感謝いたします。
本当に、本当に、ありがとうございました。

私は、貴方とほぼ同世代で、しかも同じ国語を話す者としてこの国に生まれたことを、とても幸せだと思っています。
少なくとも、貴方の書いた物語に、私が出会わなかったら、私の人生は今とは違っていたと思います。それもおそらくかなり。

私の読者としての全くのわがままな願いですが、これからも貴方様がますますご健康で、さらなる物語を書いてくださることを、願ってやみません。

                          敬具
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by nyoirin | 2010-04-19 18:13 | 本・読書
今年初めての蚊の家庭内侵入のせいで、目が覚めてしまったので、徒然なるままに『1Q84』の感想を書くのだ。夜中なので、気分がハイになって、とんでもないことを書いてしまうかもしれないけど。
ネタばれバリバリありなので、スルーする人はして下さい。

今、2周目でBOOK2の途中だけど、1の方を読み終えた時点で、思うに、どうしたって2を読み終えても、もやもやしたものが残っちゃうなー、なのだ。
『ねじ巻鳥 クロニクル』の『2』を読み終えたときの、もやもやのほうが強かったけどさー。似たようなもやもやなんだよねー。

もしかして、BOOK3が、有りなんじゃないかと思うのだが、どうだろう?
だって、2巻完結なら、上下巻でいいんじゃないの?あるいは前後編。『海辺のカフカ』だって、上下ってなってるよ。
発売予告のちらしには「全2冊」って、書いてあったけどさ。

だって、いろんなことが、ほっぽらかしじゃん。
あんなに冷静沈着な青豆さんが、何故にあそこで死を選ぶか?
第一ホントに、死んじゃったのか?はっきり書かれてないし。
天吾くんは、青豆をなんとしても探し出すと、決意する訳だしさ。
それに、ふかえりだって、戎野先生だって、どうなっちゃったわけ?
小松はどうでもいいけど。
タマルと老婦人だって。
二人は青豆を家族のように愛し、護ろうとしてるのに、その好意をむげに無にするような青豆さんじゃ、ないはずだ。

そりゃあ、村上春樹が「これで完結です」と言うなら、完結なんだろうけど。

BOOK3 <10月-12月> っつうのが8月30日あたりに、出るんじゃないのぉ〜?
今回最初から、全てがひ・み・つ・だったじゃない。
村上春樹も、ノーコメントだし。

ラストより、途中の方が、感動した。
「私という存在の中心にあるのは愛だ。
私は変わることなく天吾という十歳の少年のことを想い続ける。彼の強さと、聡明さと、優しさを想い続ける。彼はここには存在しない。しかし存在しない肉体は滅びないし、交わされていない約束が破られることもない」      『1Q84』 BOOK2 p.113

二人には、ちゃんと巡り会って欲しいんだな。
それじゃあ、あまりにも陳腐だろうか?

流石に頭が固まってきたみたい。
もう寝よう。
お空が明るくなってきたわ〜。
鳥さんて、なんて早起きなんでしょう。
おやすみなさーい。
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by nyoirin | 2009-06-29 04:15 | 本・読書

村上春樹『1Q84』

昨日、朝から待っていた、村上春樹の新しい長編小説『1Q84』が、届いた。
その三日ほど前に、長嶋有の『夕子ちゃんの近道』を読み終えていたので、いつもなら、次に待機している本にとりかかるはずなのだが、昨日村上春樹が届くのを知っていたので、中途半端にならないように、新たに何も読みはじめないようにして、待機していたのだ。

さっそく読みはじめたのだが、もったいなくて、どんどん読み進めてゆくのが、なんだか憚られる気分。
ネタばれになるので、内容に関しては何も言わない。
昨日届いた瞬間から、がーっと100ページくらい読み進んだが、今日は本を開いていない。
今日絵が帰ってきて、今回、とても学ぶことが多く、ある思いが大きくなったので、そちらのほうも、嬉しいことに、なんだか久しぶりにワクワクしているのだ。
それで、村上春樹の新刊と、絵への新たな思いの、幸せな板挟み(?)にアンビバレントなことになってしまったわたくしは、熱いながらもどうしていいかわからないような、混乱した状態。

でも、いいんだ。
楽しいんだもん。
幸せなんだもん。

ありがとう。ありがとう。
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by nyoirin | 2009-05-31 22:55 | 本・読書

高橋たか子と村上春樹

TVがつまらないので、必然的に読書の時間が増える。
土踏まず月間を粛々と遂行しつつ、これまでドラマを観ていた時間に、村上春樹を読みなおしている。
暗黒山一号から、『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』を発掘することがかなわず、とうとう文庫でそろえてしまった。
その三作一気読み。そして驚くわたくし。

私は、高橋たか子と村上春樹を、とてもとても敬愛している。この二人の作品に出会わなかったら、ささやかではあるが私のこれまでの人生は、必ずや違ったものになっていたであろう。
かねてから私は、高橋たか子と村上春樹を手近に置いて(って、ハルキのこの3作品は”手遠”だったけどさー)、ときどきひとり高橋たか子フェアとひとり村上春樹フェアをして、何度も何度も読み返しているのだけれど、村上春樹のこの2作品は、そういった事情から、読み返したのは実に27年ぶり!!『羊〜』は、88年に読み返している。

初めて出会ったのは、1982年の12月3日(読書記録より)。この日に『風の歌を聴け』を読み終えている。
(高橋たか子との出会いはそれより一年先で1981年4月24日に、私にとっての高橋初体験の『怪しみ』を読み終えている。)
今回久しぶりに読んでみて、最初から、”井戸”が重要なものとして登場していることに、驚いた。
私は、この”井戸”を、かなり頻繁に思い出すというか、思い浮かべている。

”井戸”は、高橋たか子も象徴的にその作品に登場させている。
人間は、一人一人、意識するしないにかかわらず、その存在の底に井戸を持っていて、その井戸の底は、内部の海に通じていると、高橋たか子は言う。

「波子は自分の掘っている井戸とはすこし違った場所で、この女が掘っている井戸に感心し〜」
高橋たか子著『装いせよ、わが魂よ』より

高橋は、この”井戸”をたびたび”存在の井戸”と称し、潜心することによってそこに降りてゆくという。そしてそれはやがて集合的無意識ににも似た”内部の海”へと通じる道、道とも呼べないところを通って、その海へ出て(?)ゆくことになる。

”井戸”は、村上春樹の『風の歌を聴け』に、まず火星の井戸の話として、登場している。
また、
「ある日、何かが僕たちの心を捉える。なんでもいい、些細なことだ。バラの蕾、無くした帽子、子供の頃に気に入っていたセーター、古いジーン・ピットニーのレコード……、もはやどこにも行き場のないささやかなものたちの羅列だ。二日か三日ばかり、その何かは僕たちの心を彷徨い、そしてもとの場所に戻っていく。……暗闇。僕たちの心には幾つもの井戸が掘られている。そしてその井戸の上を鳥がよぎる。」
村上春樹著『1973年のピンボール』より

私は、今回読み返すまで、最初からこうして既に、村上春樹も”井戸”を書いているいることを、全く憶えていなかった。
村上作品の”井戸”といえば、まっさきに思い出すのは『ねじまき鳥クロニクル』の井戸だ。主人公は空き家の庭に打ち捨てられた井戸に降りていき、また別の男はノモンハンの井戸に閉じ込められてしまう。『〜クロニクル』では、”井戸”は明らかに異世界へ通じる通路だ。”井戸”とは何か?異世界とは何か?
最初から、彼の作品には、こうして”井戸”が登場していたのだ。

>そしてもとの場所に戻っていく。
心に掘られた井戸を通して、もとの場所にもどっていくのだ。この”もとの場所”こそ”内部の海”(引いては真実の”海”)ではないだろうか。そして、『〜クロニクル』の異世界もまた、”内部の海”なのではないだろうか。
面白いと思うのは、”そこ”が、村上春樹は、しかし”海”ではなく、しばしば”森”であるところだ。
村上の”森”は、高橋の”海”だと、私は思う。

私は、密かに、その先のそこを”そもそもの場所”と呼んでいる。
”そこ”は、本来言い表しようのないところだ。森”もしくは”海”は混沌とした、聖も邪もまじりあった、時間も空間もないところだ。”そこ”は、”森”もしくは”海”の密林もしくは底を通り抜けた、私たちが生まれる前にいたところ、そしてまた、帰ってゆくところ。
”森”もしくは”海”は、”そもそもの場所”に至る途上に、大きく広がっているところでは、ないだろうか。

村上春樹は、ずっと、”森”との境界を描いてきた。
今読んでいる『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』では、”世界の終わり”という名の”森”と”ワンダーランド”という名の”井戸”との関わりあいについて描かれていると、私には思える。そして主人公の”わたし”は、その境界で永い眠りについてしまう。
その後、『スプートニク』では、彼女が、”森”に行ったまま帰ってこなくなってしまう。
その後もずっと、境界をめぐって、行ったり来たりを繰り返しながら、主人公たちは、思いあぐねている。
だが、『海辺のカフカ』で、ついに、カフカくんは、はっきりと自分の意志で、”森”から”井戸”を通って帰って来、かつ現実の世界で生きてゆくことを選択する。彼は、自分の現実である東京へ戻るべく、四国をあとにするところで、物語は終わっている。
真実の”森”は、生きながらにしては、決して行き着けるところではないからであり、であるにもかかわらず、”そこ”に至ろうとしながら日々生きてくことが、我々の生きるということだからだ。

一方高橋たか子は、常に”海”の方向しか観ていない。
高橋は、”海”をさらに潜ってゆくと、底がほの明るくなっていると言う。
その向こうに、真実の”海”があるらしい。もはやそこは、”海”でもないらしいが。
常に常に、”そこ”に至らんとしている。だが、彼女もというか、彼女こそ、”そこ”は生きながらにしては、決して至れないところであることを知っている。であるにもかかわらず、常に至ろうとしてやまないのだ。
受洗にあたり、一時は筆を折ったが、日本に戻ってきてからの著作は、常にこのことに言及している。日々、”井戸”を掘り、そこに潜心し、”海”をもさらに潜り、”そこ”に至らんとしている。
十字架上のヨハネとアビラの聖テレジアを霊的指針として。
彼女もまた、そうして日々、生きることを生きているのだ。

こう書くと、高橋と村上は、一見、方向性が逆のように見えるかもしれないが、実はまったく同じなのだ。
一度森に踏み込んだあと、引き返し、現実世界で生きようとすることと、視線の先に”そもそもの場所”があって、そこから目を外さないで生きようとすることは、同じことなのだと、私は思う。

私もまた、高橋たか子と村上春樹を指針として、また、ずっと先をゆく偉大な友として、日々自分の井戸を掘り続け、”そこ”に至ろうと試み続けようと思っている。
そのあらわれの「土踏まず」と『ひとり村上春樹フェア」かなと思う。
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by nyoirin | 2009-04-11 13:08 | 本・読書

やはり?

今また、久しぶりに水彩絵の具をひろげて、筆をとっている。
絵の具が乾くのを待つあいだ、CDプレイヤーに入れっぱなしになっているCDが何だかわからないまま、スタートボタンを押した。
果たして、『スターバト・マーテル』が流れ出した。

それで、あのあとのことを思い出した。
それは「やはり?」と思うような、流れになっているように見える。

ヨハネが私のところへ、大挙して押し寄せていた頃、続いてテレジアまでもがやってきてくれる気配があったのだが、すんでのところで、入手しそびれた。
その後は、ア○ゾンの私のカートに、そのままひっそりとした希望となって、収まっていた。
その後、ある日突然、『スターバト・マーテル』なる言葉が私の頭に浮かんできたことは、9/19の日記に書いたが、あのときの無理無理の私の予感めいたことが、形を変えてやってきたように思う。

先日これまた久しぶりに、ア○ゾンに行って、自分のカートを覗いてみた。そうしたら、テレジアがまだひっそりといらっしゃるのを見つけた。私は、なんの気なしにそこをクリックしてみた。すると、一点だけ、以前とは別の書店から売りに出ているではないか。しかも、値段は以前の3分の1で!!素晴らしい!
即、ポチッとしたことは、言うまでもない。
その上、関連本を新たに捜してみると、なんとテレジアの当の著作そのものが、やはり1点だけ売りにでているではないか!先にクリックしたのは、その著作に対するいわゆる解説書なので、本体が手に入らなければ、全くではないが意味がないと言えなくもない。素晴らしい!!しかも、お値段もお手ごろ。重ね重ねに素晴らしい!
もちろんこちらも即、ポチッとした。

そして今、二冊とも届いて、手元にある。
素晴らしい!

あの、突然やってきた『スターバト・マーテル』は、やはりこれの前兆だったのではないかしら?と思いたいわたくしである。
だってだって、もう10年近く前からずう〜っとあちこち捜し続けてきたのに、いっこうに巡り合えなかった本なんだよ〜。
だから、『瑞兆』っていうのかしら、そう思いたいわけさ。
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by nyoirin | 2007-10-15 16:35 | 本・読書

無所有

韓国の禅僧、法頂師による随筆『無所有』を読んだ。
「許すということは、他人に施す慈悲心というよりは、散り散りに崩れようとする自分自身を、自ら整えて収めていくことではないかと思うのである。」(本文より)
「本来無一物。-中略- そうだ。もともと、何物もないのだ。この世に生まれてくる時、持ってくるものもないし、この世を去る時、持っていくものもない。因縁が在ったものが、因縁が切れると無くなってしまうものだ。いつの日かこの体も捨てていくだろうに…。」(本文より)
こんな言葉の数々に触れ、ふと本から目を上げて、自分の居室を見回せば、なんと恥ずかしい思いにかられることか。「暗黒山」などと、わざわざ命名までして、本やCDを積み上げている私。クローゼットから、はみ出している服。やっぱり不味いより美味しい珈琲を飲みたいと思ってしまう私…。挙げればきりがない。私の欲と業。
そしてまた、無明の谷を彷徨っている私。独り彷徨いながら、「許すということ」「学ぶということ」「愛するということ」をずっと考えるともなしに、考えている。許すとは、他人を許すことによってのみ、救われる自分というものが在る--とは、村上春樹の言葉。
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許し難いものを許すことは、そう容易なことではない。そこを許す……。難しいことだ。

それにしても、私が嬉しかったのは、先に遠藤周作も『深い河』で引用していたと、我が拙ブログの「ヨハネに想う」のところで書いたのと同じ、「マハトマ・ガンジーが言っているように、宗教とは枝がいっぱいに繁った一本の樹と同じだ。枝から見るとその数は多いが、幹から見るとたったの一つだけである。まったく同じヒマラヤなのに東側から見るとこうであり、西側から見ると違って見えることと同じなのである。それゆえ、宗教は一つに至る個別的な道なのである。同じ目的に至る道なら、別々の道を行くとしても少しも悪いことはない。事実、宗教は人間の数ほど多く有り得る。」(本文より)と、法頂師も言い切ってくださっていることである。
私は、信仰とは、個人的なものであると思い、今こうしている。これでいいのだという、裏付け(?)のようなものをいただいた気分でいるのは、私の勝手な思い込みかとは思うが、私には、こうしてやってゆくしかない。
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by nyoirin | 2007-07-17 23:49 | 本・読書

ヨハネに想う

『十字架のヨハネ研究』を読み終わる。
ヨハネが、私のところへ押しよせるようになってからか、遠いいつぞやと同じ感覚が甦るようになり、少し考え込む。
合わせて、高橋たか子の『放射する思い』を再読(実は4回目)。また、同じく高橋の最新刊『どこか或る家』も読む。
一気に、私をカトリックの世界へと誘う。そしてさらに、いつぞやの感覚が強められる。

私は、高橋たか子から始まった、この16世紀スペインへの巡礼に、何を求めているのか?私は、何が知りたいのか?
答えは、既に求められている。
それは、生きながらにしては、決して「完全に」には行き得ないその場所へ、近づきたい、行きたい、行ってみたい、行く方法があるのなら知りたい、ということ。
しかも、私は、ここで示されている道ではない道を通って、行きたいと思っている。実に始末に困った人間だ。

このことを高橋たか子が知ったら、ただちに否定されるかもしれない。いや、きっとそうに違いない。
かつて、遠藤周作や井上洋治神父が言ったように、これは汎神論的であるから。でもそれは多分私が立っているところが、仏教の土壌だから、どうしてもそうなってしまうのだと思う。
遠藤周作が『深い河』で言っている、ガンジーの言葉に、私は深く共感する者であるから…

ペルソナ対ペルソナと言う以上、そんな考えは、許されないに決まっている。そもそもがおかしいと、言われても仕方ない。でも、仕方ないのだ。
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by nyoirin | 2007-06-18 22:20 | 本・読書
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同年代(中高年)の女性のみなさまに、元気の出る本を一冊、ご紹介。
平 安寿子著『あなたがパラダイス』朝日新聞社刊。このタイトルの“あなた”は、ジュリーこと沢田研二のこと。

図書館司書をしながら、独身を通してきて、去年めでたく50の大台に乗ったというときに、心ときめく男性にに巡りあったのかもの敦子。
2003年に50歳の誕生日を迎え、今や自分と夫の両方の親の介護で、毎日四苦八苦するまどか。
結婚はしたものの、子どもに恵まれず、子どもを欲しがる夫と離婚した43歳の千里。という3人の女性をそれぞれ主人公にしたオムニバス小説だ。3つはそれぞれ独立した話だが、3人ともこの年頃のお約束「更年期」の症状とジュリーの歌と存在によってつながれている。(最終章が、お楽しみ。うふふと思わず笑っちゃう)

三人三様の事情と症状を抱えていて、それぞれあまり楽ではない状況なのだが、読後感はいたってさわやか。不思議と、元気が出てくる。
『もはや、結婚した、子どもができたという理由で仕事をやめる女性は少数派だ。それは主に、経済的理由による。それなのに、在宅看護推進政策は進む一方。そのうえ政府は、子どもも産めという。夫婦ふたりで働いて生活を立て、税金を払い、かつ年寄りの介護もし、子どもも育てて、みんな元気に機嫌良く暮らせなんて、無理もいいところだ』(本文より)
自分はおばさん、パートの勤め先にいるのはおっさんばかり『きれいにしていく意味がない。そのうえ自転車通勤だから、動きやすく汚れが目立たないのが服選びの基準になった。おかげでおしゃれ心というものが萎えてしまった。(略)でも、違うんだな。おしゃれは、女の元気の元だ。馬子にも衣装というではないか。誰だって装えば、きれいになるのだ。よそ行きを着て、胸を張って、意気揚々と、お出かけしなくちゃ』(本文より)
いちいち「そうだ、そうだー!」と、共感してうなずいた。まだまだ、すてたもんじゃないわ!私だって、ますますこれからよっ!てなもんである。
みなさま、歳をとるほど、人生面白くなってきますわよ!(と、霧山修一郎by『帰ってきた時効警察』も言ってたわよね〜)

ジュリーが、こんな歌を唱っていたのね、私にとっては意外な情報もあり、ちょっと最近のアルバムを聴いてみようかしらと思ったり、『へえぇ〜』これも更年期の症状のひとつだったのね、と、新たな情報もありの、お得感のある一冊だった。

同年代のみなさま、これからが私たちの本領発揮ですわよ〜。これからこそ、本気で人生楽しまなくっちゃですわ〜p(^0^)q
ハピネス、チャオ♪
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by nyoirin | 2007-06-15 19:00 | 本・読書
大変です、隊長!
ア○ゾンがまた、教えてくれなくていいことを、教えに攻めてきますぅ。ダメです。抵抗できません!
あのあと(あのっていつだよ?)、ヨハネが3人連なって家に押し寄せてきたのはいいのですが、テ、テレジアまでもぐぁっ…
テレジアは、最初2人続けて攻めてきたんです。でも、その2人は、すんでのところでやり過ごすことができました。ですが、今度ばかりは、とうとうかわせませんでした。1人にやられてしまいました。ううう、まことに遺憾であります。申しわけありません。
実は、それだけではありません。テレジアと一緒にエックハルトも2人一緒になって攻めてきたんです。これにも、抵抗できませんでした。この3人は、ものすごく動作が速くて、あっというまに家の中まで攻め込んできました。もう目の前まで来てますー。あ”〜っ、申しわけありませんんん〜。
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by nyoirin | 2007-05-28 18:00 | 本・読書

2015.4.1.より、身の回りの小確幸(小さいけれど確かな幸せby村上春樹)を見つけてつぶやきます。


by nyoirin