<   2005年 01月 ( 6 )   > この月の画像一覧

2005.1.26.wednesday

c0009212_19411666.jpg
 木もれ陽が 綾におりなす 輝きの
     粒子をつかむ 手にやわらけき
[PR]
by nyoirin | 2005-01-26 19:41 | 日記

2005.1.19.wednesday

「ネバーランド」を観た。ジョニー・デップ、やっぱり素敵。TVの宣伝を見て、絶対泣いてしまうと思ったので、マスカラはつけずに行った。正解だった。とても抑制のきいた脚本だと思う。ものすごい盛り上がりなどないのに、もう中盤から涙が出てくる出てくる。泣きながら自分でも「なんで?」と思ってしまう。劇中劇のかたちで「ピーターパン」が上演されるのだが、このよく知っているはずの話に、ほんのワンシーンでグッと捕らえれてしまい、さらに涙があふれてしまった。ラストに近づくにつれ、嗚咽となり、映画館のあちこちからもすすり泣きが聞こえてくる。最後は「えーっ!?まさかここで終わらせないでよ!ここでもう明るくなったら、私はどうすればいいの?」と心の中で叫んだのに、終わってしまい、困った。
 この映画は、ジョニー・デップが自分の子どもに向かって見せたいと思って出演した映画だ。バネッサ・パラディと子どもたちと、今とっても充実してて幸せなんだな、ということがとても伝わってきた。
 子どもの親を慕う気持ち。母の子どもを思う気持ち。妻の夫を思う気持ち。夫が妻を思う気持ち。愛するということ。信じるということ。それらが綾をなして静かに語られてゆく。じんわりと、しみじみと、そして深く、心にしみいる物語りだった。
[PR]
by nyoirin | 2005-01-19 20:47 | 映画・ドラマ

2005.1.18.tuesday

 「少年A 矯正2500日 全記録」を読み終わる。サディズムについて誤った認識を持っていたことに気づかされた。また、少年Aが加虐者であり被虐者でもあったということ、そしてなにより「母親の過干渉」ということが、私にも警告を与えている。しばしば子どもによかれと思ってしていることが、まったくの方向違いであることがある。またそれをほとんどの親が愛情だと勘違いしていることが悲劇を助長している。

 「宮崎駿の世界」を読む。なかでも押井守×上野俊哉がとても興味深かった。
 「教育という名の注入」「スケープゴート」「スケープゴートを血祭りにあげることによってはかる結束(人民裁判)」「密告」。それまでおバカな私は、組織となると大変なのね〜、ぐらいの認識しかなかったので、目からウロコだった。まさに、そこでもこの通りのことがそっくりこのまま行なわれていたから。本人はきっとまったく意識していなかったろう。今でもまったく意識していないだろう。しかし、自然とこうなってしまっていったのだ。そう思うと、とても恐ろしい。ひとりひとりの人間が集まって、集合になり、それを何かの目的に向かって動かしていこうとすると、どんな集合もこうなっていってしまいやすいということか。
[PR]
by nyoirin | 2005-01-18 16:46 | 本・読書

2005.1.12.wednesday

 高橋たか子の「意識と存在の謎」を読み終わる。
 昨日は、自分が、本分ではあるが本意ではない場所にいると書いた。書いたときは気づかなかったが、これはずいぶん前の、今よりさらに未成熟だった頃の焦りと、ほぼ同じではないか。と、気づいて我ながら情けなくなる。が、気をとりなおそう。
 1年半前に、私がいったん引き返したのは、「あちらとこちらの世界に引き裂かれる思い」で、とも書いたが、やはりそれは少し違うかもしれない。私が、こちらに戻って来たのは、まず表層の分析・分別をきちんとやっておきたかったから。そうするようにという声を、私は自身の奥底から聞いたし、かの言葉もそうはっきりと言っていたから。私はそれらに従ったのだ。なによりまず、そうしておかなくてはならないと思ったから。
 「出」と「入」。確かに方向は逆のように見えるが、それがおこっている「場」はひとつの「花」なのだから、その花びらの1枚1枚の表層である日常の様々な事柄を、きちんとこなしながら、なおかつ彼方へ「入」ことができる道があるのではないか。それこそ、心の使い方次第で、同時に成ることができるのではないか。そう思ったから。あのとき、そういう予感があった。
 今回私は、大いに励まされた。ある意味、その予感は間違っていなかったという裏付けのように思った。「彼方」は「底」で、「いのちの与え主」が「頂点」であろう。今やここで、自分だけを頼りに、一人で成さなければならないのだから、自分を律し、私の最も苦手な「継続」をしなければならない。
[PR]
by nyoirin | 2005-01-12 14:50 | 本・読書

2005.1.11.tuesday

c0009212_1293950.jpg
 今、高橋たか子の「意識と存在の謎--ある宗教者との対話」を読んでいる途中。しばらく遠ざかっていた世界に引き戻される想いをもつ。1年半ほど前に、このようなことで身を引き裂かれる気がして、自分から現実世界へ道を引き返して来た(つもり?)。「現実世界」はやや大袈裟か。
 遠ざかっていた世界は、二つある。今この本に触れて、一挙に二つともに引き戻される感がある。それは、考えてみなくても、この二つは全く別のものではなく、いわば同一線上にあるつながった世界であるとも言えるので、少しも不思議なことではない。
 ただ、今また1年半前と同じことで、その二つの世界と現実世界とのかけ離れ加減が、あらためて想われる。実は、かけ離れているというのは、本当は正しくない。ここは、そこから遠い場所ではなく、その表層に乗っているのだ。表層から中間層に至る黒猫。この黒猫は手強い。私は凡人なので、黒猫にまみれて黒猫であることから容易に抜けだせない。しかも今やその中間層にさえなかなか行かれない。
 ただ私は、今は敢えて外界に向かってここに踏みとどまらなければならない正念場なのだという気がしている。ここに立っていることは、かなり辛いことでもある。それは、私の本分であっても本意ではないように思うからだ。けれども、今は、ここに立たなくてはならない。でももしかしたら、死ぬまでここに立ち続けなければならないのでは、という不安がときどき頭をかすめる。どうなるかは、わからない。
[PR]
by nyoirin | 2005-01-11 01:56 | 本・読書

2005.1.7.friday

 明けまして おめでとう ございます。
 今日は、七草。お米の量を増やしたのに、お水の量は例年どおりにしてしまい、さらさらお粥になりませんでした。なんだか、今回の年越しは、失敗が多いみたい。何かの悪い暗示か?いいえ、そんなことはないわ。と、あえて明るく考えましょう!何ごとも。
 ななくさなずな
 とうどのとりが
 にほんのくにに
 わたらぬさきに
 ななくさたたけ
と、ちゃんと歌いながら七草粥を作りしました。お味はまずまず。アッと言う間にお鍋はからっぽ。でもこの歌、あらためて歌詞の意味を考えてみると、なんだか最近のことでは鳥インフルエンザのことを言っているみたいじゃありませんか?もう少し時間を遡れば、香港カゼとかも大陸から渡ってきた訳ですものね。昔の人はいろいろなことがわかっていたんですね。
 年賀状はなんとか書き上げましたが、大掃除はいまだ継続中。今日もこれからふた仕事(?)くらいします。
[PR]
by nyoirin | 2005-01-07 13:42 | 日記

2015.4.1.より、身の回りの小確幸(小さいけれど確かな幸せby村上春樹)を見つけてつぶやきます。


by nyoirin