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かなしばり

そう言えば、一昨日は一日中頭痛がして、ごろごろしながらまどろんだり覚醒したり(ラジバンダリって、ごめん)していたら、久っしょぶりに、かなしばりにあった。
近頃じゃあ、かなしばりくらいでは、びくともしない。
まず、木の柱をこすりあわせるようなギシギシいう音から始まる。おお〜っ、なつかしいぞ、この感覚!と思ったら、かなしばりゾーンに突入。
じっくり観察。
昔は、その間に、実際は見えるはずのないもの、たとえば壁の向こうの隣の部屋の様子とか、が見えたりしたけど、今回はそういうものは見えなかった。
幽体離脱とかしないかなと、期待したが、それもなかった。
時間的にはどれくらいかよくわからないが、しばらくすると、音が消えると同時に身体もほぐれる感じ。
寝入りばなよね。
で、もう一度眠ろうと試みる。
と、またギシギシ音が始まって、再びゾーンに突入。
しばらくして何事もなく終了。
ちょっともの足りない感じがしたが、だからと言ってどうするでもなく、本格的に眠りに入る。
で、なんだか夢を見たが、今は思い出せない。朝は覚えてたんだけどな。
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by nyoirin | 2008-08-25 00:21 | 日記
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まず、なんなんさんへ。
度々申し訳ありません。前言撤回いたします。
やはり、作家の人となりは、作品評価には組み込んではいけませんね。
あのあとも、つらつら考えました。
感想を持つのは自由だけれども、評価する場合、作品そのもの以外のものは、混ぜてはいけないと思うに至りました。申し訳ありませんでした。私は、そういうものを、混同していました。
私のは、評価ではなく、観ての感想です。



で、『スカイ・クロラ』と『攻殻機動隊GHOST IN THE SHELL2.0』の押井守豪華二連発。
せっかく都会に出たので、どうせなら地方のシネコンでは上映されない映画を、なるべく観ようと思いました。

『スカイ・クロラ』。
観にいって良かった〜。
事前に押井監督のインタビューは観てしまったが、映画の内容に関しては、ほとんど何も情報を仕入れないで観たのが、とても良かったと思う。
淡々と、静かに進行してゆく中、主人公たちが置かれている状況が、徐々に明らかにされてゆく。
川井憲次の音楽が、切なく鮮やかに静けさを縁取ってゆく。
押井守が、ずっと追い求めて来た「生きているって何?魂って何?どこまでが個と言えるの?」が、ここでは更に深く掘り下げられていた。
『攻殻』までは、ゴーストの最後の砦は「記憶」だった。人間にとって「記憶」こそ何にも勝る宝だ。
『スカイ・クロラ』のキルドレと呼ばれる子どもたちは、記憶は失うが永遠に生き続ける。本人も気づかない癖だけを残して。まるで、烙印のように。
「それに何の意味がある?私を、殺して」と叫ぶ子ども。
大規模作戦で、通常とは違うたくさんのレシプロが大編隊を組んで戦闘に向かうシーンでは、その禍々しさと、それとは裏腹な圧倒的な美しさに、胸が潰れる思いがした。

考えてみれば、キルドレは私たちなのだ。
私は、生まれかわりを信じている。
キルドレは、私たちだ。
私たちも、今生は今生の課題をクリアするために、生まれかわっているのだと思っている。
前の生の記憶がないのは、そのほうが良いからだ。ただ、その気配、想いの痕跡みたいものだけ残されているだけで。
そして、今生きていると思っている今生も、実は自分も毎日死んで毎日生まれているのだ。細胞は分子レベルでは、ものすごい高速で毎日入れ替わっているのだから。

「昨日と今日は違う。今日と明日もきっと違うだろう。いつも通る道でも違うところを踏んで歩くことができる。いつも通る道だからって景色は同じじゃない」
主人公のモノローグで物語は、最高潮に向かう。

「きみは、生きろ!」

前作の『イノセンス』と違って、今作は、奇しくも(?)『ポニョ』の宮崎駿同様、わからいままにしておくというところがなく、はっきりと私たちにメッセージを示していると思う。素晴らしい!
もしかして、一番おとうと弟子(?)の庵野秀明の怒りの黒いポスターのせい?
やっぱりみんな負けず嫌い?もしかして?

もう一度観たいと思った。





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『攻殻機動隊GHOST IN THE SHELL2.0』
観られなかったら、仕方ないと思っていたのだが、観ることができて良かった。
もちろん、’95年版のほうは劇場では観られなかったものの、DVDで何度か観ている。
オープニングのCGは、最初からできたらこうしたかったんだろうなー、と思った。落ちながら、光学迷彩で消えていくときの素子の表情に、グッときてしまった。バトーじゃないけど、思わず「もとこーっ!」と叫びたかったわ。どちらかというと、「なかむらやっ!」的な意味で。
人形使いの声が、家弓家正から榊原良子にかわっていたのも、面白かった。どっちもありだと思った。ただ、女声のほうが、より素子とシンクロしてしまうぞという、恐さのようなものが、伝わってくるように思った。

そうだよなー、全てはここから始まったんだよなー。

『スカイ・クロラ』→『攻殻2.0』と遡行して観たので、やけにしみじみと感慨にふけってしまったようだ。
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by nyoirin | 2008-08-24 18:06 | マンガ・アニメ
前回の記事で、なんなんさんのコメントに返コメしてたら、膨大になりそうになったので、記事として書くことにしました。

なんなんさんへ。
まず、誤解があります。私は、宮崎駿がマザコンだから『ポニョ』を評価しないなどとは、言っていません。宮崎ワールド全開だし、『千と千尋〜』や『ハウル〜』と違って、わからないままにしておくということをしなかったし、物語としてちゃんとおとしまえをつけてるし、って言っているではありませんか。
ただし、だからこそ作品評価と関係ないとは思いません。関係大ありだと思います。

全ての創作者=芸術家には、作品を創る、創らなくてはいられない動機というものがあります。無意識的にしろ意識的にしろ、それが何かのコンプレックスであること、言い換えると、抑圧された心であることが、多いと思います。報われない想いです。
つまりは「報われない愛」です。もちろん、それが全てだとは言いません。
でももし、チャイコフスキーが同性愛者でなかったら、私は今、こんなにも愛するあの交響曲第6番を聴けなかったかもしれないし、ゴッホがテオ以外のたくさんの人から理解され愛されていたら、少なくともゴーギャンだけでも彼を理解していたら、そしてあの黄色い家でずっと一緒にいてくれたら(やはり有り得ないとは思いますが)、私はあの青い部屋の絵の前で、泣くことはなかったと思うし、何より、なんなんさんの言っていた、クリント・イーストウッドに、戦争に行かなかったというコンプレックスがなかったら、彼の一連の素晴らしい監督作品がこの世に生まれることもなかったと思います。。(もちろんこの世に、本当は「もしも」はないと思ってますよ!)
宮崎駿のマザーコンプレックスも、そうした作品を創作する原動となったはずです。マザーコンプレックスという名称がいけないんですね。母親に対する報われなかったと彼が思い込んできた想い=愛です。
それが、今回『ポニョ』を創るにあたって、自身もこの歳になってやっと、彼は受け入れることができたんだと(母も自分も)と思います。

私の勝手な推測ですよ。
『ポニョ』の中で、宗介が母親のことを『リサ』って、名前で呼んでるでしょ。あれは、お母さんとしてではなく、母も一人の女性なんだ(「人間だもの」なんだと)と、あえて思おうとした宮崎監督のけじめ(?)っていうか覚悟(?)っていうかの表れではないかと思うのです。そう思えるようになったということの表れ。「女としての母」も受け入れられるようになったと。

私は、今回の宮崎監督の『ポニョ』は、ようやく監督自身が、「自分は母親に愛されていなかった。自分は生まれてきてはいけなかったのではないか」という呪縛から、抜け出せることができる…できた…その第一作目だと思っています。
そういう意味では、記念すべき作品だと思います。

作品評価において、コンプレックスが創作の動機になっているからが評価を落とすのではなく、創作者が、そのコンプレックスにいつまでも拘泥しているのではなく、作品としてどこまで昇華させているかが、大事なんだと思います。

人は、全て生まれながらにして、何らかの欠落を持って生まれてくるんだと思います。程度の差、種類や方向性は人それぞれ様々な欠落です。それを、何かで埋めたい、補いたいと思いながら、生きてゆくんだと思います。ほとんどの人が、それを意識してはいないと思いますが。
なんらかの欠落を持った人が、また人を生み育てるので、途中自分の欠落を、相手に反映していってしまうのです。
それが、親から子へ、そのまた子へと、連綿と続く鎖となって、継承されていってしまうのです。途中のその中の誰かが気づいて自分で自分を超えることができるまで。
でも、それは容易なことではありません。
気づくだけでも大変だし、気づいても自らそれを受け入れ、超えてゆくのはさらに大変なことです。それには、相手を、引いては自分を、あるがままに受け入れ、許さなくてはならないからです。
無意識的にしろ意識的にしろ、そうしようとしてジタバタすることのひとつに、創作があるんだと思っています。
芸術家はだから、苦しいし、ある意味不幸せなんじゃないでしょうか。ですが逆に、その「想い」を昇華できるかもしれない創作ということを見つけられたという意味では、この上なく幸せだとも言えるでしょう。
でも一番幸せなのは、きっと私たち鑑賞する者なのかもしれません。
芸術家がジタバタしてジタバタして、結果昇華させることができた素晴らしい作品に、触れることができる者は幸せです。

私は『ポニョ』で、宮崎駿の鎖を見せつけられた(と感じた)のです。
だから、私は自分が綱っがている鎖を顧みたのです。
私もここでさらに正直に言うと、彼の鎖の形状と、私の鎖の形状が似ていたんです。
だから、過剰に反応したのかもしれませんね。
宮崎駿には宮崎駿の欠落があったように、私には私の欠落があります。
私も、私を超えなくてはなりません。

というのが、私の『崖の上のポニョ』について、です。
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by nyoirin | 2008-08-19 18:48 | マンガ・アニメ

崖の上のポニョ

なんなんさんの、熱い推薦を受け、先週観にいってまいりましたよ〜。

久しぶりの、宮崎ワールド全開の作品でしたね。

わたくしの正直な感想を申し上げましょう。
観ている途中から、私には、「おかあさーん、おかあさーん」という叫びに似た声が、ずっとずっと聞こえ続けていました。
日本男児は、みーんなみーんなマザコンだわ!と思った次第です。

そして『エヴァ』に思いを馳せ、庵野はしっかり駿先生を継承しているのね、と思い、方や押井はも少し違うわ、と思った。
『スカイ・クロラ』をまだ観ていないので、なんとも言えないが、NHKの特別番組で、押井は今回『スカイ・クロラ』を作った動機はただひとつ--「今、人生のスタート地点に立った若い人たちに言いたい。つらいだろ。俺もつらかったから、わかるんだ。でも今人生の二周目に入ったと思っている俺から言わせてもらいたい。でも、人生すてたもんじゃないぜ。と」と、はっきり言った。
ずいぶんはっきり言うなと思った。
『攻殻』ファンとしても、これはなんとしても観に行かなくてはと、思った。

奇しくもその翌日だったと思う。同じNHKで『プロフェッショナル』のゲストが宮崎駿だった。
宮崎も、初めてじゃないだろうか、母親のことに言及していた。
母親との関係を、ずっと抱えてきたことを。人を楽しませることができなければ、自分は存在している意味がないのではないかと、ずっと思ってきたと。詳しく語ることは、拒んでいた。自分でも「このことを追求していくと、精神分析的な、精神医学的な話になっていくんだろうと思うけど。これ以上は、あまり言いたくない」と言っていた。
作中のトキさんは、その母親がモデルだと言っていた。

ある意味カミングアウトしたと言えるのではないだろうか。
そのせいか『ポニョ』には、前作『ハウル』やその前の『千と千尋』に比べ、わからないままにしておくというところがなかった。
とてもよく出来ていたと思う。
強く求める気持ちが、津波をも起こすこと。純粋な故に、それが地獄の蓋ではないがこの世界の、本来だったら開きはしない扉を開けてしまったこと。それを元通りに閉めるには、開けてしまった者が、『法』に従って(?)それなりの責任をとらなくてはならないこと。
納得。

では、母としてはどうすれば良いんでしょうね。

守るけれど、取り込まない?
愛するけれど、構わない?

最近、典型的な母と息子一体化現象の真っただ中に放り込まれた感があるので、ことさら、こんな風に感じてしまったのかもしれない。
私は、それではいけないと思いつつ、当事者が、あまりにもみんな気づいていないので、もしかしたらかく言う私こそ、全く気づいていないのでは?!と、疑心暗鬼に苛まれるのであった。

ああ、心してかからねば。
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by nyoirin | 2008-08-12 18:17 | マンガ・アニメ

夏 蝉 エアコン

昨日一昨日は、比較的涼しくて、終日エアコンを使わないで済んだ。二勝。

だが、今日は、日の出とともに気温はグングン上昇!午前10時には室温が30度に達する。
11時まではなんとか頑張ったのだが、流石の長男もこの暑さでは睡眠の続行ままならずらしく起きてきたので、とうとうエアコンを稼動させた。
今日は、負けだーっ。悔しい!二勝一敗。

おかげで外に出られない。
水溶性だから。

蝉が、今年はなんか少ない、と、7月20日前後は感じていたのだが、月末に急にいっせいに鳴き出した。
昨日あたりから、一段と激しさを増してる感じだ。
折しも夏のお約束、高校野球が始まって、例の応援歌と太鼓の音と蝉の声が相まって、暑苦しいことこの上ないわ。(><);;;

今年は更に、真夏は40度超えするという北京でのオリンピックも中継されるんだろうから、これ以上暑くなってどうするの?だわ。
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by nyoirin | 2008-08-03 17:16 | 日記

2015.4.1.より、身の回りの小確幸(小さいけれど確かな幸せby村上春樹)を見つけてつぶやきます。


by nyoirin