06 藤

うちの借景になってる木に、宿り木的に生息している藤が、今年はこんなに立派に開花した。
今年は、例年にないくらい大きくてたくさんな気がする。
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# by nyoirin | 2015-04-29 16:14 | 身近な風景

05 かたつむり

ベランダでコーヒーブレイクしていたら、越冬したと思われるかたつむりを見つけたよ。
今日はずいぶん暖かいから、そろそろ目を覚ましてもいいんじゃないかな?
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# by nyoirin | 2015-04-27 16:01 | 身近な風景

04 鶯

今年は来ないのかなと思っていた、毎年美声を聞かせてくれる鶯くん。
例年より遅かったけど、一昨日昨日と、いつもの木のあたりから、鳴き声が聞こえてきたよ!
ぶらぼー!

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# by nyoirin | 2015-04-26 10:04 | 身近な風景

03 タチツボスミレ

ここに引っ越してきた20年ほど前は、たくさん咲いていたんだけど、昨今めっきり少なくなったタチツボスミレが、今年も咲いてくれました。
良かった016.gif
嬉しい003.gif
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# by nyoirin | 2015-04-07 15:53 | 身近な風景

02 レモンジーナ

売れ過ぎて、一時出荷停止を余儀なくされたという、レモンジーナが、隣町のイトーヨーカドーにたくさん置いてあったよ。003.gif
2本買えた。まだ飲んでないけど。
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# by nyoirin | 2015-04-07 15:49 | 身近な風景

01 マニキュア

久しぶりのマニキュアが、一発でキレイに塗れたよ〜003.gif

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# by nyoirin | 2015-04-01 16:22 | 身近な風景

亡命ではなく

エックハルト「神の慰めの書「より

そこで人間は、自己本来の遺志を放棄し、自己の我を断念し、断固として神の人間にあたえ給うすべてのことの中へと脱出(亡命)することが、自己にとって正しく賢明にして回心の業なることを悟らなければならない。
我らの主の「人もし我に従い来たらんと思えば、己を捨て、己が十字架を負え」(マタイ伝第16節第24節)との御言は、深くその意を汲めば、そのようなことを意味するのである。
すなわち、己が十字架を負えとは、十字架であり苦悩であるすべてのものを己自身より棄却せよとの謂れである!
けだし、己を捨て、あますところなく己自身より脱出した人にとっては、もはや十字架も苦悩もなく、すべてはただ歓喜であり、快心事であり、このような人こそ実に神に従い至るからである。


物理的な位置関係や形が、実際にあるわけではない。従って、実際は亡命ではない。
だが、ここでのエックハルトの謂いは、私には同じことを指して言っていると思えてならない。
徹底的に我を潰してしまえば、こんなに自由なこと、こんなに楽なことはない。
まさに、すべてはただ歓喜であり、快心事である。
ただ、最終的に2元性に落ち着いているところだけは、異を唱えたいが・・・
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# by nyoirin | 2015-02-08 18:36 | 日記

成ること

ずっと以前に、人は成ってゆくのだと書いたが、それは間違っていたので、訂正する。
成ること、成ってゆこうとすることが、人々に苦しみをもたらすのだ。人々とは、我々のこと。

彼女の最後の日記を読んだが、改めて私は、彼女から卒業したと、確認できた。
そこには、ある悲しみがあった。

彼女は、最後まで成ってゆこうとしていた。
よって、最後まで苦しみを抱えて生きることとなった。
人生の晩年、彼女は、ほぼずっと毎日怒っていたようだ。
今の日本の現状、事象、社会、人々(おもに若者)、文化人・インテリと呼ばれている人々、出版社、などなどに対して、「汚い、汚い、汚い!」と、ずっと叫んでいた。
それに対して、自分はものすごい「俺様」ぶりだ。
自分は今や、肉体的には表面的には日本人だが(日本人に生まれてしまったのだから仕方ないと、悔しそうに言う)、今や中身はほとんどフランス人だと言い切っている。
また、「常に、日本のトップクラスの男達の中で、鍛えられてきた私。最近のインテリとは格が違うんだ」という趣旨の発言が各所に見られた。
また、「私は、常に、愛する男から愛される女だったなあ、とつくずく思う」という発言も、繰り返し繰り返し出てきた。また「愛しても愛されなかった女が、その切ない心情を綴って小説などを書いているが、私は、そんな女が大嫌いである」とも断言している。

彼女は、カトリックの神秘家の体験を、自分も得たいと強く求めていたのではないかと推測されるが、この日記を読む限り、最後までその望みは得られなかったのではないかと思う。
神秘主義者たちは、どうしてもカトリックというカテゴリーの中で思考してしまうので、その体験を神の啓示として受け止めてしまうのは致し方ないが、全く間違っているという訳でもないだろう。
せめて、彼女にも、それが訪れていれば、晩年になってもここまで怒りながら暮らすこともなかったろうにと、気の毒に思う。

彼女は、最後まで、ここではないどこか(日本ではないフランス)、今ではないあの世(神の国、天国)を、求め続けて生きたようだ。
それが、全くの見当違いだということに、気づかなかったのは、悲しい。
やはり、自分自身でも何度も言っているように、彼女が非常に頭脳明晰で感覚的にも鋭いものを持っていたであろうことが、災いだったのかもしれない。
それが訪れるのを、いちばん妨げているのは「思考」だからだ。
それに、彼女が深く傾倒していったものが、フランスとヨーロッパの地であったことと、キリスト教(カトリック)であったことも原因である。
カトリックでは、なにより神との合一を求める。人々はそれぞれは個人主義で、一人一人が一人ずつ神と合一するするのだ。
神とは合一するが、生きている人間同士は個人主義でバラバラである。そこにこそ、苦しみが生まれる。
彼らは、そこに気づかない。
それが訪れるのを妨げるのは、「我」だということにも。
ひたすら、ペルソナとペルソナで向かい合って、つまり相対的な認識しかしないのだ。
この世を、世界を、宇宙を、相対的に見ては、絶対にいけない。
ただの一つものだということに、気づくことがなにより重要なことだ。
私もあなたも、無いということ。

彼女が、最後まで苦しみの中にいたことが、悲しく残念に思う。
私が、ある意味指標を無くし、一人迷っていかなくてはならなかった時期、私は確かに彼女に支えられていた。
あの頃は、彼女ともう一人のかたの著作しか、私にはなかったから。
だが、今に至り、彼女の手を離れ、また歩いているということ。一人だが一人ではない。
一人などということも、「私が」などということも、全て幻想なのだから。

そのもう一人のかたは、もしかしたらずいぶん前から、そのことを知っているのかもしれないと思う。
まだ、はっきりしないが。
次の作品に期待している。

















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# by nyoirin | 2014-01-31 11:37 | 日記

2015.4.1.より、身の回りの小確幸(小さいけれど確かな幸せby村上春樹)を見つけてつぶやきます。


by nyoirin